近況だったり悩みだったり影響だったり。

どうも。お久しぶりです。

無事連載を終えた当初、インプット期間を設けてしっかり休もうと決心していたホタテです。案の定、仕事が入ってきて断れない性格なのか全然安息が訪れてません。

 

以前もやってたここ最近感じたことや思ったこと、悩み、そういったものを思考整理のような感覚でブログで書いてます。今回もそんな感じで好き勝手に綴りたいと思います。最近また配信やってるんですけどそこでは到底言えないような本質的なものが言えるのがこの場なので、あまり面白い内容ではないかもです。

 

やはり物を作っている時によく見えてくる自身の欠点。それがこのお休み期間で具体的になってきた。その中でも大きく感じたのが楽観性の無さ。これは元より僕は楽観的な人間だったはずなんですよ。幼少期、僕は誰よりもふわふわした子で所謂不思議ちゃんだったらしいです。考え方も非常に楽観的な人間で、損得だの合理性だのが全くない人間だった。ただそれもかなり極めていたのか人の感情も分からなかった。相手を思いやる気持ち、察する力、そんなもの微塵もない人間だったんです。

そこからこのままじゃまずいと本能的に思ったのか、急に悲観性だったり物事を客観的に見る目を養いました。それはそれで中学時代苦労もしました。どんどん自分が冷酷な人間に思えて苦しんだりもしました。その辺から創作を前提に物事をすべて見るようになり、消費者の目線も消えていったような気がします。

今悩んでいるのは全くもって本末転倒なんですが、客観性や合理性を意識するあまり、元より得意だった楽観性や主観性に自信を持てなくなった。ある意味すべて考え込んで理論立たせてやっとそこに意味を見つける癖が馴染んでしまった。これは非常に機械的な思想で、映画や漫画、音楽なんでもいい...そういった創作物でも感動しても脳が勝手にその感動を読み解く。そして言語化する。

これは謂わば言語化に囚われてしまった状態にある。僕は現状どう苦しんでいるかというと、言葉や論拠で考える限り言葉や論理を越えるものを理解できない点にある。

昔から難解な作品が好きだった。「serial experiments lain」やら「エヴァ」やら、やたら難しそうなものばかり食い付いていた。もちろん厨二病的なインテリ系に酔う自分カッコいいみたいなのも当然ありました。でも一番はそれらを理解できていない自分が腹立たしかった。僕が好きになる作品は大抵、理論や論理を越えたものばかりだった。好きなのにその好きを証明できない自分はそういうのを描けないのかもしれない恐怖が大きい。

恥ずかしくて悔しいけど、僕は頭が悪いし感受性も薄い、平凡な人間なんです。

 

頭で解っても本心で解ってないものの例えで分かりやすいものをあげると「自己破壊」。全くもって合理性はないのに、その傾向にある人間にとっては欠かせない一つの行動原理であり、そこにはその本人にしかないアルゴリズムがあるのだろう。これはそういうものがきっとある....という点までしか僕は分からない。まぁ人間誰しも別人だから完全理解など出来るはずもないのだが、僕はそれを完全理論で理解しない限り描くのが怖いのだ。『ファイトクラブ』で内なるテロリズムを学んだつもりでいても、僕本心からその自己破壊や破壊衝動を合理性などないはずのその行為を完全には再現できない。やはりフィクション作品や、そういった作品での模倣だったり参考にしたものを別の手法で再現するほか出来ない。だからリアリティもアドリブ感もそこで落ちてしまう。一度冷静にその行為を行う意義を考えてしまうフェイズを挟んでしまうと勢いは落ちる。ばちばちのセンスも何も掴めないんですよ。

 

これには本当に頭を抱える。着物の柄や服の模様だって、きっと歴史や論理がそこにあって専門家からしたら一瞬でバレるのだろうと思うと筆が止まる。

ここで楽観性があれば、そんな思い込みも吹っ飛ばして内なるもので勝負できたかもしれない。そういった潔さがあればと今ではいつも思う。

これは親切さも邪魔してくる。相手に理解されようと努力する作家は間違ってないと思う。でも親切すぎてもダメなんです。どこか意地悪じゃなきゃ。読者のストレスさえもエンターテイメントに消化できない限りは淡白な揺れ幅などないフラットな作品になってしまう。例えば、読者に難解な内容を提供しようと考える。親切な性格だったらその難解さを噛み砕いて読者に教えるだろう。でもすべて説明しきってしまうとそれはテンポも悪いし何より読者が感じる歩幅がない。ここで読者を完全信頼して好き勝手に意地悪できたらどうだろう。「最高にロックだぜ」なんて構成できたらどうだろうか。不親切でも鮮度と作品の爆発力は大幅に増す気がする。もちろん不親切になりたいわけじゃなく、程よく両方活かせればいいなと思う。

僕は自分で言うのもなんだけど、読者を信頼しきれてないしそもそもチキンだ。ビクビク顔を伺いながら描いてる。それが合理性と結びついてすべてにおいて意味合いとか必然性を考えてしまう。意味のないコマが効果的になるなんて狙って描けないんですね。

今は本当にこの臆病で無駄に親切を振る舞う自分自身が嫌で仕方ないです。自分の絵の、持っている武器の強さを全く理解できていない。もっと胸張って描ければいいのですが....。

 

こんだけネガティブな卑下野郎なので、いつも心の中でどうして自分がこんな立場に立ってていいんだろうとか、すごい人に会った時や恵まれた環境を実感した時に「どうしてこんな平凡な僕が」みたいな感情が常に纏うなか『海獣の子供』を見て「あんたでいいんだよ」という言葉がここ最近ずっと波動のように響いてます。ここ最近ずっと五十嵐大介先生の漫画が非常に居心地がいいのに気づきました。

またロジカルに考えてしまいがちなんですが、いわゆる名作映画だとか、壮絶なルサンチマン、人生で一度は観ておかないといけない作品だとか、そんなもの僕は実は心の本心で共感したことなんてほぼ無いんです。戦争映画だって他人事にしか思えなかった。死の価値観だって平和ボケした僕の世代だったら歴史の一個として淡々としか見れなかった。そこにあった大きな悲しみや事故、それも過去の物として無機物を見るかのような、心の震えはないんです。3.11の時も、結局自分が被害者ではなかったのもあったけど絶望を然程感じれなかった。テレビ画面で信じられないショッキングな中継映像は確かに観た。実際ショックだった。でも、もうその時の感情も自分に中でが過去のものとして消化済みのような感じがしている。あれを経験してしまったが故に歴史に載る大きな出来事などこれくらい不意に訪れて不意に終わる大きな流れの点に過ぎないような、書物で見るほどの大袈裟なものに感じれなくなっていった。(しかもそうにしか思えない自分が冷酷と自己嫌悪をする無限ループ)

頭ではこの映画が当時の人々に衝撃と新たな価値観を与えたことは歴史的な観点から見て理解は出来るんですが、それが結局本心から理解したわけではないから言ってしまえば「事実としては理解できたけど自分的には全く分からない」みたいな状態になっちゃうんですね。

そんな中『海獣の子供』はそれを全部否定してくれた。君は君の世代で君の思うようなままで正解だと背中を押してくれたような優しさを感じたんですよね。五十嵐大介さんの優しさが出てるのかもしれないんですが、戦前と戦後が大きく人の価値観を分けたと思うんですが、そんなのも蹴散らす程の楽観性とさらにそこに妙な説得力があるんですよね。

それはひどくロジカルなんだけれども、思考の域はとうに越えていて、もっと本質的な点を突いている。鋭くて怖い。だけどとてつもなく居心地がいい。そんな風に思った。

僕は今新作を描いているのだけれど、相変わらず楽観性は全然なくてビクビクとちゃんと描いてるんですが、五十嵐大介作品に出会ってからは以前よりかなりダイナミックになれた気がした。それでいい、それが楽しい、たとえ理由がなくても良いものは良い、そんな風に思い込みながら描いてます。

完成するか分からないですが是非皆様が読んでくれる時が来ることを祈ります。

 

悩みを書いてたはずがいつのまにか脱線して五十嵐大介作品に感じたものを熱弁してしまいました。何が言いたかったんだ...。

相変わらず考えたから書くタイプではないので、思いついたものをひたすら書き殴ってる感じになってしまいましたが、沢山悩んでる内の1個「楽観性」。これは今後とも僕の大きな悩みとして立ち塞がることでしょう。頑張っていこうと思います。

 

また悩みを書くことでしょう。読んでていい気持ちになるものではないので、暇な時に軽い感覚でこいつこんなめんどくさいこと考えながら描いてるのかって思ってくれればいいです。

 

また会いましょう。

『恋する寄生虫』③

どうもホタテです。

宣伝遅れちゃいました。『恋する寄生虫』の第3巻が発売されました。今巻で最終巻となります。

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なんか前回もしましたが、自分の描き上げたものをもう一度読んで少し振り返りたいと思います。

<ネタバレ注意です>

 

 

 

今回の巻からは全て一人で描き上げた初の巻というのもあって思い入れが強いですね。それとずっとやってみたかった鉛筆画のラスト。これも叶って収録できたことが本当に嬉しいです。

<虫>感染者たちが抱く死への欲動を絵にするときにいつも黒のぐちゃぐちゃっとした物をひたすらカケアミで描いてたんですが、やはり鉛筆画で描いたラストの手前のシーンが一番想像していた形ですね。

僕が抱いていた<優しい闇>をそのまま描いたような感じです。死を厭がるような描写にしたくなかった。やっぱり死ってどうしても負の印象が強くて、言葉で直接「死」という字を載せれば必然とそのページは重くなって、深刻に悲しくなる。でもそうではないよ、そう捉えない当たり前にあるもののようなある意味居心地の良さみたいな優しさを最後は絶対描きたくて、ペン画ではあまりに硬すぎて鉛筆画という手法を取りました。

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でもやっぱり完璧に印刷には載りませんでしたね^^;仕方の無いことなんですが、これは原画の方がイメージが近かったかもしれないですね。

いつか原画展でも開きたいなぁ。

 

言われてみると表紙のイラストも死の欲動に近い感じの表現してますね。色々と今回の表紙絵には想いを詰めて描きました。なので沢山の要素が含まれてますが、これにおいては深く作者から言及はしないでおきますね。読んでくれた、見てくれた方々の想像したものが正解ということで、僕が言ってしまうと味気ないかな。

雲の形に正解があったらつまらないのと同じです。

 

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例のシーンも原画の方がやっぱり綺麗。さっ筆の味が出てますね。こちらもずっと始めの頃からイメージがありました。とにかく白く、美しくをずっと思ってました。原作ではラスト雪は降らない筈なんですが、どうしてもラストのこのシーンは僕は雪を降らせたかったので勝手に雪が降るシーンを入れさせてもらいました。

春なのに雪が降る珍しい現象にラストを飾る運命性のようなものを盛れたのもあったし、終雪という言葉があまりに寄生虫のラストにぴったりだったので降らせました。名残雪も、佐薙の心情と見事リンクしましたね。この作品はやはり雪で始まり雪で終わるのが美しい。桜の比喩も素晴らしいですが漫画では視覚がもろ左右されるので直接的な表現もありなのかなと。

 

枠線がラストに連れて薄れていく演出について。これは実は萩尾望都先生の漫画を読んでていてそういった演出をなされていた影響です。演出の意図は完全に異なるのですが、生命線のような、コマの枠線そのものが寄生虫のようなそんな想像を巡らせながら楽しく描いてました。ラストの思い切った解放感のための布石も勿論ありましたが、見事綺麗に決まったかなと自負してます。一見ストレスでしかないものが意図されていて、ラストの一撃の印象のために蓄積しているの大好きなんです。粋な演出ってカッコいいですよね。憧れます。

 

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鷹雄というキャラクターについて。あとがきで三秋さんが言ってらした佐薙の元デザインのイメージというものがモッズコートにドクターマーチンのくせっ毛の大学生という話は鷹雄をデザインする上では実は全くその情報を意図していませんでした。元々僕はくせっ毛の女性が好きで、反抗心だったり思春期の現れとしてよくくせっ毛キャラを好んで描いてました。モッズコートに制服、これが意識的にデザインした部分でとにかく佐薙とは違うかっこいい女性像を描いたつもりでした。

彼女は「佐薙とは異なる生きづらさ」を持った少女です。佐薙よりは強く、器用な生き方をしている。仮面を被って柔軟に人に溶け込んで一歩引いた立ち位置で物事を見れる。そんな子です。佐薙の理解者になりたくてもなれず、最も佐薙の鋭さに迷惑した子でもあって欲しかった。死への感情を共有できる仲、でもその絆も和泉が強引に作り上げたもので大した強さはない。でも10話目で初めて、そこに小さな小さな結び目が出来たようなちょっとした感動を描きたかった。

よく脳寄生虫の洗脳の話において鳥に捕食された雨の日によく出てくるあいつ(名前も出すのも無理な程ダメなんです僕....)Kが例として出されていて、佐薙とは違って羽ばたく強さを持っている。でも寄生された鳥は操られている。社会の生きづらさと人に合わせて動く様と重なり合わせたネーミングを考えて鷹雄って名前にしましたね。

 

 

和泉のオリジナル回について。これは単純に僕が原作に補足して描きたかった部分です。(なんか前にも来た気がするけども)せっかく出したオリジナルキャラのコンビニ店員さんもただのモブとして終わらせるのは勿体ないなと考えてました。数少ない主人公へ理解を示そうとしてくれたキャラですしね。当初は予定していませんでしたが、匂わせるセリフを言わせたら見事和泉の娘と親友だったことと繋げることができてここは偶然ですが良い設定になりましたね。

<虫>が延命装置としての役割を果たしているのではないかという予感をさせる為と、和泉がこの話から降りるための動機をもっと強くする為この話は描きました。「加奈の死については納得しているんです」このセリフずっと言わせたかったんですよね。これは僕自身の経験談で僕の親友が自殺した時にまんまのこと思ったんですよ。世の摂理のまま起きたこととしか思えず、まぁそりゃ死ぬよな。みたいな感じで。地球の重力とは違う重力に影響されていて、地球の泥みたいなものが接着剤のような働きをして抑えられているような。それがぷつりと取れて空へ落ちていったように思えた。なので自殺に納得できるような感覚はこのコンビニ店員の子に言わせてみたら見事にストーリーに組み込めましたね。

 

他にも多分色々なこと考えながら描いてたはずなんですが、多すぎてパッと出てこないですね笑

長くもあっという間に終わってしまった初連載。これだけ恵まれたコミカライズの仕事はもう一生ないんじゃないでしょうかね。ここまで好き勝手に描かせてもらえたことは幸運としか言えません。

次はどんな漫画を描くかな〜。

 

ではまたどこかでお会いしましょう。

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。ホタテユウキです。

 

ちょっとご挨拶遅くなってしまって本当申し訳ないです。年が明けて結構ゆっくりと休暇を楽しんでました。SNSだとか、ブログだとか結構放置気味でした。すいません。

 

いざ連載が終わってコタツでぼけーっとして特に何もしなくていい状況が年末あったんですけど、あまりの手持ち無沙汰さにずっとそわそわしてました。もうここまでいくと自分でもちょっと引きましたね笑

休暇を取ることすらまともにやったことなかったんですねぇ。何をすればいいのか分からなくてずっと落ち着きがありませんでした笑

知り合いのイラストレーターの人たちと年末一緒にいたんですけどずっと僕はそわそわしてたみたいです。何もしないのも難しいなぁ。

 

 

昨年の記憶はほぼほぼ連載で手一杯だった感じがしますね。忙しくもあったんですが、やはりこの世に自分の作品を残してる瞬間が生きてる実感として一番大きいので「忙しい」というか、必死に生きてた。という感覚が近いかもしれません。

まぁでも、何だかんだ拙いなりによく頑張ったのかな....(?)と少しは思えるようにはなりましたね。お疲れ様、自分。

 

今年からは以前ブログで綴ってた「インプット期間」に入ろうと思います。ちょくちょくは仕事はしますが(読み切りとか、絵のお仕事とか)連載はひとまずしばらくお休みします。無期限ですが、どうせ性格上ある程度固まったら描かずにはいられない性格なのでその期限は想定よりも遥かに早いかもしれないし遅いかもしれないですね。

やっぱ描いてないと生きてる意味が分からなくなるくらいにはもう毒されてますんで。ゆるーく待っててくれれば助かりますね。

 

 

今年の目標は大体そんな感じですかね。ありとあらゆるものを吸収したいなぁ。色んなものに挑戦できたらと思ってます。

 

今年もどうぞよろしくお願いします。

少年エース2月号

どうも。ホタテです。

ブログ遅れて申し訳ないです。

最近Twitter再開しました。@Hotateyukiです。一旦支障でないかなと思って再開してみました。また支障出てきたら消えるかもです。

 

12/26に発売された少年エース2月号に『恋する寄生虫』最終話(後編)が掲載されています。

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どのコマもネタバレになってしまうので本誌からの写真は今回だけ載せれません。すいません。

この号をもって本当に終幕です。あっという間の様な長かったような...。1年と4ヶ月でしたね。

 

ちょっとタイミングが良いので今までの連載中思ってたこととか裏話とか振り返っていこうかなと思います。

 

こうして単行本を振り返って読んでみると巻毎にその時その時の僕の必死さだったり、その時期の思考が読めて恥ずかしいですが面白いですね。

1巻なんてもう必死に描いてたのが伝わりますね笑

もちろん後半手を抜いてた訳ではないんですが、背伸び感と言えばいいのでしょうか。硬い絵ですね。

実の本音をここで述べると、この頃(1巻執筆時)は原作の表紙絵、つまりしおんさんの表紙絵の佐薙にものすごく苦しめられていたんです。あの表紙絵は今見てもとても美しくて素晴らしい絵だと思います。あの表紙に惹かれて『恋する寄生虫』という作品に触れた方々は本当に多いと思います。だから僕も1巻執筆時の連載初期は物凄くあの表紙絵に引っ張られていたんですね。この頃は自分なりの『恋する寄生虫』へのアンサーが曖昧だったのもあります。いや、自分なりの佐薙ひじりが曖昧の方が厳密には正確かな。

僕はとにかくそのまんまで他媒体で作品を作るのが嫌で、『恋する寄生虫』も自分の納得いかない点はどんどん変えていこう!という意気込みで原作を読み始めた記憶すらあります。

いわゆる原作レイプというものはそんな好きというわけではないんですが、リスペクトさえ感じれば新しいものや独自解釈の作品はわざわざその媒体でやる意味合いと別の人がやる意義を感じて尚好きになる傾向にあるんです。

そういった意味で僕の中にある佐薙ひじり像と世間的人気を施した佐薙ひじり像の差にすごく苦しめられました。手元にはお手本の如く、佐薙ひじりの説明書が置かれているのに僕はそれにしっくりきていない。でも崩す勇気も新人なのもあってなかなか切り出せなかった。

じゃあ僕の中の佐薙ひじりってどんな感じかと問われると、原作より人間味があって不器用そうで鎧を纏ってかっこいい女の子だったんですね。

しおんさんの佐薙ひじりって僕の勝手なイメージでは「物語が始まる以前に既にこの世への未練が無さそう」だったんです。言ってしまえば高坂に出会う以前にとっくに死んでそう、高坂へ興味を抱くビジョンすら浮かばなかったんです。とてつもなくその孤独でふわふわとした危うさは美しい。地に足がついてないみたいでこの世の生き物とは思えない美しさ。でも僕はこのひじりから物語が始められず苦しんだんです。

 

佐薙ひじりは一生人を愛せないんじゃないかという恐怖感といい、視線恐怖という「他者」の存在を意識させる強迫性障害といい、「他者」がすごく見えるキャラなんですよね。生きるうえでは本当は不器用だけども、上手いこと生きてきた葛藤があって僕はすごく人間味を感じたんですね。死にたがりのふわふわした子っているじゃないですか。良く意味深な発言したり、予測できない行動に出たり、急に発狂したり死への欲動を剥き出しにしたりする感じのキャラクター。佐薙ひじりってコレではないなと僕は解釈していました。きっとしおんさんの佐薙に僕は共感できる余地がなかった。本当に本当の希死念慮の持ち主にしか見えなかった。だから彼女を救える気がしなかった。ただ美しすぎたが故に、掴み所のない彼女にひたすら苦しめられた。

 

2巻目だったか1巻目の描き下ろし漫画を描いている辺りから自分の佐薙ひじり像が輪郭を帯びてきたような記憶があります。進んでいくイケメン化については完全に僕の個人的な視線を高坂フィルターを通して具現化していったんだと思います笑

そう。高坂は佐薙ひじりに恋心を抱いていった筈ですが僕は佐薙ひじりに憧れの念があった。これが1巻目のあとがきにも書いたんですが、コミカライズの佐薙ひじりにはモデルにした人がいました。(中学の頃の親友Wさん)

完全に個人プレーで申し訳ないんですが、現在の僕が中学のWさんへ抱いていた憧れが具現化した結果佐薙ひじりがイケメン化していったんです。

でも冷静に考えて下さい。鎧を被った一匹オオカミ系の女の子でピアス開けて金髪にタバコ...もうカッコいい要素しかない。それでいて歳下で寄生虫学の薀蓄も豊富、自身の価値観をはっきりと言う様、何なら影響うけちゃいそうな程堂々としてるんですよ。それなのに同じ病気の苦しみを理解出来る子....これは高坂も憧れの視線を向けてしまうんじゃないかな。

高坂もきっと、恋心以前に人として佐薙ひじりへ尊敬していた様に思えます。それも無意識に絵に出ていたんじゃないかと思えますね。

 

絵柄の変化で何点か、それと漫画版での違和感について意図的だった部分があります。

一つ目は高坂の髪の描き方の変化ですね。細かすぎて伝わらないと思ってたんですがどうしてもやりたくて笑

最初はツヤは一切入れない真っ黒な髪の毛にしてました。これは潔癖症のせいでシャワーを浴びまくった結果毛がパサパサになっていることを現したかった。でも佐薙と出会い、一緒にいる間は潔癖症も和らぐ。よって段々とパサついた髪の毛にツヤが出てくる。そんな演出にしたかったんです。

 

それと先に言っていた違和感。これは原作を読んでいた人なら尚のこと、漫画から入った人でも感じたかもしれない第1話の展開の速さです。あまりにも佐薙と高坂がくっつくの早くない?という声も頂きました。

まぁ正常な思考だと思います。佐薙もいくら病気の苦しみが分かると言っても今まで誰にも心を開いてこなかったのにここで急にマスク越しキスしますかねって。

でもこれも意図的に速くしました。正直リスキーではあったんですが、逆に違和感を抱いて欲しかったんです。若干ネタバレですが、寄生虫によって有り得ない恋をしていく人物が次々と登場します。その様な違和感を作品としての意図を気付かれずに若干残しておきたかったんです。1話切りをする人間もそこで出てくるかもしれなかったんで本当リスクはあったんですが、全部を読むと効果的になるようにはしていたつもりです。

 

あと原作ファンの人からしたら高坂のイメージはもっと細そうな人だったんじゃないかなって僕はよく思うんです。三秋さんにも実は言われました。もっと細くして欲しいと。実際細さを意識してたんですが、これもまたしっくり来ない。どうしてだろうと思ってたら、細く描くと27歳っぽく見えないからなんですね。もちろん細くて27歳に見えるように描けない僕の画力のなさも問題なんですが、先ほど書いた「あり得ない恋」を表現する為には年の差を絵的にも分かりやすくしたかった。なので成人男性としての記号を捨て切れなかったのもあってそこまで細さが目立つデザインにならなかった。

これは僕の実力不足もあったので原作ファンの人からすると違うって思われたかもしれません。申し訳ないです。

 

1巻目の単行本を作る時に、デザイナーさんの有馬トモユキさんは僕が自らKADOKAWAの人にお願いして担当してもらいました。僕がファンだったのもあったんですがこの方は見た目だけのデザインをする方じゃないことを知っていたのもありました。寄生虫のデザインの打ち合わせをした時も見映えよりもメッセージ性を優先させて欲しいという難しい提案をしたんですが本当に見事なロゴを作って頂けて感動したのを覚えています。

両端の欠けは佐薙と高坂を連想させます。中央のふりがなも良くみるとふりがなだけ色が違うんですね。まるで中央のデザインに寄生しているかの様な形になっていて見事の一言。純文学ちっくな地味さが残る作品ですが、漫画としてのクールさもちゃんとあって原作小説と完全に別物へと進化させたのもまた有馬トモユキさんあってのことでした。本当にこの方に担当して頂けて良かったと心から思います。

 

 

2巻目の始め辺りまで背景アシスタントの方々が2人居ました。でも、全部自分で描きたい欲動が抑えきれず途中から全て一人で描く様になりました。その辺りからはずっと楽しく描けていた気がします。もちろん作業量は滅茶苦茶増えて厳しかったんですが、全部自分の思い通りのクオリティになる方が遥かに楽だったんですね。空気感とか、雰囲気だとか絶妙な点でも自分の要素が組み込める。こんな楽しいことはないと気付けて良かったです。多分今後ともずっと一人で描いていくと思います。

 

3巻目は現状今の自分の全力を出したはずです。でもまた時が経ったら上記のように、まだ硬かったなぁとか言うのかもしれませんね。でもそうであって欲しいと願う自分もいます。やはり進化し続けてこそ生きてる実感を味わえますからね。止まりたくない。

今回の短い連載ですら僕は人生で経験したことがない程の量の変化を自分の中に感じました。客観性、主観性、価値観、全てにおいて大きく月1回程のアップデートが行われていた様な感覚です。それも毎回大型アップデートです。

21歳になってまだこんだけ更新出来ることが純粋に嬉しかったんです。自分という平凡な人間でも、まだこんだけ可能性を秘めているのかっていうワクワク感が今では生きる楽しさと等しいです。身長がある程度まで伸びて年取ったら伸びないだろうという常識的な囚われ方に似てます。もう伸びないだろって半ば無意識な諦めがあった中こんな急成長したら嫌でも自分に期待してしまいます。

次こそオリジナル作品を描きたいと思っています。でも今回の連載でやりながら僕が意識していた「必ず良いものにしたい」という欲動は多分一生変わらないと思えたのもあって、必ず良いものにしたいと思っています。それは人の人生をも捻じ曲げてしまう様なエネルギーに溢れた作品かもしれない。

僕は漫画は娯楽だ、だとか言われるのが本当は悔しい。悔しくてたまらない。分かっているんです。突き詰めていけば娯楽に過ぎないことを。サブカルチャーであることは否めない。でも、僕自身は漫画で人生を狂わされ、漫画で価値観を見出し、漫画で世界が変わった。じゃあ僕は娯楽に人生を変えさせられた哀れな人間だろうか。そうは思えない。もちろん娯楽目的で描かれたライトな漫画だって沢山存在する。それらを貶すつもりも、下に見てる訳でも毛頭ない。単に漫画をもう「漫画」って一括りにする時代ではないと思う。あまりに違いすぎて、多種多様すぎて一括りにするにはあまりに無理がありすぎる。

僕が目指すところはやはり、恩返しの意味も込めて人の人生に影響を与える様な普遍的に良いものを描きたい。人生をかけて描くべきものなんです。

その為にも簡単に次々と生み出すのはもうやめた。いくらこの乏しい脳で何かを捻り出したとしても、それはやはり乏しいものにしかならないと思う。なので今は一時的にインプット期間にしようと思う。いつまでとも考えていない。でも僕がしっくりくるまでは続けようと思う。

いつか自分が「良いもの」を描けるのが今では楽しみでしかない。そんな自分は今までなかったから本当分からないものですね。このワクワクが伝わるといいなあ。

 

 

またどこかでお会いしましょう。

 

良いお年を。

少年エース1月号

どうもホタテユウキです。

明日(11/26)発売の少年エース1月号に『恋する寄生虫』の最終回(前編)が掲載されております。

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最終回に限って滅茶苦茶シンプルな扉絵で申し訳ない。でも決して手抜きという訳ではないのでご安心を。最終回ということもあって個人的にはかなり気合を入れて描きました。

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表紙は『すべての人類を破壊する。それらは再生できない。』です。付録もデッキケースが付いてきます。MtGはテーロスブロック辺りからずっとやってるので何だか嬉しいですよね。僕もデッキケース、使って行こうと思います。(プラスチックの質も結構上質でしたよ)

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さて、上記にも書いた通り最終回(前編)なので次号の最終回(後編)で完全に連載は終了です。最終回に限ってページ数が多くなってしまって2分割になってしまって本当に申し訳ないです。ですが、単に2分割した訳ではなく、ちゃんと引きとしては効果的になっているように工夫した点で分割しておりますので読んでいて違和感はそこまでないと思います。

相変わらずズルズルとやっていますが、あともう少しだけお付き合い下さい。

 

 

最近、連載後のインプット期間に何をしようか色々想像を働かせているんですが恥ずかしながら本当に高校の頃から仕事ばかりしていたせいか全然思い浮かばないんですよね笑

まさかここまで自分が堅苦しい人間になっていたとは....。好きに何でもしていいよ、という状況こそ一番困惑しますね。多分僕はどんな出来事、事象に対してもそこに何を得られるか、どんな価値があるのか、等をあくまで自分の蓄積してきた価値基準でどれだけ絵に役に立つかの損得のみで「興味あるない」を判断してたんですね。勝手に好き嫌いをしてたせいで偏った薀蓄や変に常識知らずな生き物になってしまったわけです。これは本当に反省ですね。

感覚的には何でもかんでも首を突っ込んで未知の体験を取得しようと行動してたつもりでしたが、こうして目的なく自由な生活をいざしようとするとこの有様です。全く自由に慣れていない。

誰か僕を目的もなく未知へ遭遇しにいく旅に連れ回してくれる人とかいれば助かるんですけどねぇ笑

とにかくパッと浮かぶものでもやはり典型的なインプット(本、映画、漫画、旅)の手段くらいしか浮かばないので何か体験として(もちろん普通にオススメのものでも)面白いものとかあれば教えて欲しいです。

好き嫌いせず何でも心の底から単純な好奇心を育てれればなぁと思います。

 

本当、僕の次回作はどんなものになるんだろうなぁ。自分が一番ワクワクです。

少年エース12月号

どうも。ホタテです。

本日10/26発売の少年エース12月号に『恋する寄生虫』第13話が掲載されております。

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扉絵は翼が生えてる感じの雲にしてみました。

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今月号でどうやら少年エースも創刊25周年らしいです。僕より4歳年上だったんですねエースは。当時ケロロとかエヴァとかサイコとかよく考えたら結構エース作品読んでたなぁと。中学あたりだったらデッドマンワンダーランドはどハマりしてましたね。今こうして片岡人生さんや近藤一馬さんと同じ誌面に載れてる事実は冷静に考えると奇跡に感じますね...。

でも連載当初、『恋する寄生虫』を少年エースで...?みたいな風に感じたんですよ。ヤングエースとかなら内容的にも分からなくはないし、少年誌でこれ受けますかね?絵柄も、、そういったモヤモヤしたものがあったんですが『NHKへようこそ!』も考えたら少年エースでした。モヤモヤが消えました。

 

さて、少年エース創刊25周年に伴って漫画家直筆サイン入りイラストボードが抽選で1名に当たるみたいです。各連載作品につき1つなので合計すると34名に当たるそうです。『恋する寄生虫』もありますので、欲しい方いれば応募してみて下さい。

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次回の第14話で『恋する寄生虫』は最終回を迎えます。ですが最終回に限ってページ数がかなり多い45ページもネームを描いてしまいまして...申し訳ないのですが私は現在8話辺りから完全に一人で漫画を描いていますので物理的に描くのが遅いのです。なので、最終回のみ2回に分けて掲載という形を取らせていただきます。引きに関しては問題ない部分で切るので、進行上問題はなく読めるかと思います。いつも遅筆で申し訳御座いませんがあともう少しだけお付き合い下さい。

3巻目の単行本は1/26を目標にしています。いつも長らくお待たせしてしまって本当に申し訳ないです。その分良いものにしたいと思っていますのでよろしくお願いします。

 

話は変わって最近僕の人生で最も大きな出来事レベルのことがありました。実は安倍吉俊さんとしっかりとお話しする機会が今月初めにありまして。軽いご挨拶程度なら何度かありましたがしっかりお話をしたのは実は初めてだったんですよ。3時間くらいなのかな。お話をさせて頂いたんですが、なんと言いますか結構抽象的な僕のワークの現状だったり、絵に対する意識の話をしまして。いつものうじうじ悩んでる感じのことをいっぱい安倍さんに話してしまったんですね(笑) 僕もなんでこんな恥ずかしいレベルに自分のこと一番憧れてる方に話してるんだろう...みたいな感覚に陥ってたのを記憶してます。

まぁ他人の人生観をペラペラ聞いたところで無難な回答だったり茶化してくれればそれでも全然会話としては良かったんですが、安倍さんは真摯に僕の言葉を受け止めてしっかりとしたご返答をしてくれたんですね。

今現状自分が曖昧にではあるけども目指しているゴールがあってしっかりとその方向へ進んでいる自覚はあるんですけど、それでもそれはとても不安で、あらゆる世の中の妨害が入って定期的に道を逸れそうになるんです。目先に急に現れる欲とか数値化される価値観によって急に劣等感に襲われたり、やっぱチョロさがあって自分に変な過信をしてる部分が急に出てきたりするんですよね。

媚びた絵を描けば楽になれるのか、要求された絵をそのまま描く作業をすれば良いのか、そんな邪な気持ちは常日頃から僕の視界の隅に蠢くんですよね。周りの知り合いとかも結構そっちに行って離れて行ってるのを目撃して悲しい気持ちがたまにあります。

それでも僕はやっぱりそれが出来ない。出来ないくせに考えてしまうだけです。無い物ねだりに近いのだろうか。そんなジレンマとは少し違いますが近しい気持ちが常にあったんですね。媚びないぞ、僕は僕の絵を信じて描くぞ、解ってくれる人だけが見てくれれば良いのだと言い聞かせながら描いてたようにも思えます。人類への失望さえも僕の絵への糧としていました。

そんな中、安倍さんは僕にある意味で一番言って欲しかった言葉をくれたんですよ。「どの人にも均等にチャンスっていうものは回ってきて、その回ってくるチャンスに備えておける状態を常に作り上げられているかが問題」と言ってらしたんですね。

このお言葉を言ってもらえただけで今までの自分の努力が間違っていなかったと言ってくれてるようで本当に心から救われたんですね。

冷静に考えるとこの『恋する寄生虫』も、少年ジャンプで持ち込みを続けていた頃はジャンプに合わせて王道な少年バトル漫画など描いてましたが自分が描きたいのはこんな物ではないと気づき自分とはこういうものを描きたいんだという意志を貫いて同人誌で『エリーゼのために』を描いたことがキッカケで頂けた連載だったわけです。これもある種の僕の戦略が見事にトントン拍子で運良く上手くいったわけなんですが、それも回ってくるチャンスに僕が適応していたからなんじゃないかなって今では少し思えるようになってきました。

自分は運が良くここまでスムーズに漫画家になれたと思っていたけども、それ相応に努力をし、チャンスに備え流れに身を任せそれに適応できていたんじゃないだろうかと安倍さんとのお話で少しですが思えるようになりました。

なんだか大きく背中を押して頂いた気がします。本当に心から感謝しかないです。この超貴重な機会を与えてくれた村田蓮爾さんと上條淳士先生にも本当に感謝しかありませんね。蓮爾さんもなんだか色々察した顔してましたし多分バレた笑

こうやって偶然素晴らしい方々との出会いが貧弱な僕の道を外さないようにしてくれていてどれだけ恵まれてるんだろうといつも思います。僕が運として良かったのはこの出会いの数々でしょう。常日頃から感謝が一番大きなモチベーションなんだなって当たり前のことを見失いかけていたのかもしれませんね。

人類への失望は若さたるプライドなのかもしれないけども、これのみで自分は絵を描かされているわけじゃないんだなと最近ふと思いました。

いつか人類へ恩返ししたいと思える日が僕にも来るのだろうか...でも前回のブログで話した通り独り善がりな絵を描きたいわけじゃないあたり、また僕も人類に何か期待しているのは事実なわけで。

そんなものが描けたらいいなぁ。一体どれだけ先のことなんだろう。

 

まぁマイペースにじんわりやって行きます。

 

宣伝、自慢、暴露という全てが醜いブログでした。

ではまた。

少年エース11月号

こんにちは。ホタテです。

明日の9/26発売の少年エース11月号に『恋する寄生虫』第12話が掲載されております。

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最終回にどんどん近づいてきました。絵にどんどん気合いが入ってきました....。気がします。

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前回お休みさせて頂いてほんと申し訳ありませんでした。ですが自分の思考の整理的な意味ではとても意味のあるお休みでした。ぼんやりと考えていた今後の自分についておおよそ目処が立った感じがしました。

Twitterをやめて表世界から身を引いて(元々大して知名度はないですが)から1年近く経ちましたが、現状辞めてよかったと思うことの方がやはり多いです。自分の絵を見つめ直すキッカケは勿論ですが、他者との比較をする焦りとかそういったものはどんどん消えていって従来僕自身が不足していた「自分の為に絵を描く」という感覚が掴めてきた気がします。

当然僕の性格から見て100%独り善がりな絵にはどうせならないのは目に見えているのでこのまま勝手に描いて満足、、といった事にはならないと思います。ちゃんとエンタメはエンタメとして意識はします。プロとはそこも重要なのは解っています。

この「独り善がりな絵」については実は結構長年僕を悩ませていたテーマの一つで、僕は言ってしまえば独り善がりな絵っていうものへの憧れが凄まじかったんですね。天才の描く絵、作者本人の世界観のみの絵、一方的な表現だけども勝手に人がなぜか惹かれてしまう絵、そう言ったものはすごく憧れていました。僕自身そういう絵が好きなのもあります。なんだかそういう絵を見ているといつも思うんです、この作者は人生で何を見て、何を吸収してこんなものを描けたのか、などと。もしかしてここの地上の概念ではない...翻っていえば生まれる前の世界のセンスのような、この世にもしかしたら無い“何か”の記憶を生まれからして持っていた人が無意識に描いてるんじゃないのか、なんて思うんですよね。

だから僕から見たそういう絵が描ける天才とかって天使かなんかに思えてくるんですよ。地に足が付いてない....地球上のあらゆる泥(僕は地球上での経験や地に足が付いた経験のことを泥と呼んでます)が全然付着しない人ふわふわした人、そんな風に思うわけです。そんなこの世の概念じゃないけど人類皆生前見ていた“何か”を断片的にでも描ける絵に人々はそりゃあ惹かれるでしょ!ずるい!なぁんて思ってたんですねずっと。僕はそう言った絵は描けない。そういう絵から無意識に影響は受けてましたが、それは僕の内なる0から作ったものでもなんでもないんです。自分が天才でも特別でもなんでもない泥まみれな人間だって気付いた時の悲しさや虚しさは結構物凄いものでして、当時相当落ち込んだですね。(気付くのも相当遅いアホだったんで笑)

でもあるキッカケで気付いたのが、泥まみれの人の絵の温かさなんですね。勿論泥が全くないふわふわした美しい絵も滅茶苦茶素晴らしいですが、やはりどこか冷たい。見てるこちら側には寄り添ってくれないなぁなんて考え始めたんです。そんなこと気付かないくらいこっちが勝手に魅了されるすごい絵なんですよホント。でも見てる側にも手を差し伸べてくれる絵って何だか優しくて、温かいんですよね。そういうのが描けるのって泥まみれな人間なのかなって思いまして。この星のことをよく知っていないと、人類のことをよく知っていないとそんな手を差し伸べる絵なんて描けないのかな、なんて思い始めました。

僕は結論からしてそう言った天使のような絵への憧れはやはり拭いきれない。でも独り善がりなだけで冷たい絵は描きたくない。そんな思考に纏まってきました。もともと母親に褒められたり人に見せて褒められる為に絵を描く程度の普通の子でしたから...。僕一人で絵はなかなか成立しなくて。勿論最初で書いた「自分のために描く」というテーマは相変わらず続けてますがそれでもどこか「隙」を、見てくれる人が介入できるような隙間を描いていきたいなって思います。それが今の僕が目指すエンタメなのかもしれないですね。

まぁここ数年でこれだけ思考論理が変われば、またコロッと変わるかもしれませんがね。僕チョロいんで。

 

長々と書いてしまって申し訳ないです。自分の思考整理のために人と喋るのが大好きなんですが、ブログもなんだかそんなメモ的な感覚になってきました。暇な人だけ読んで下さい。

 

では。

 

ホタテユウキ