近況だったり悩みだったり影響だったり。

どうも。お久しぶりです。

無事連載を終えた当初、インプット期間を設けてしっかり休もうと決心していたホタテです。案の定、仕事が入ってきて断れない性格なのか全然安息が訪れてません。

 

以前もやってたここ最近感じたことや思ったこと、悩み、そういったものを思考整理のような感覚でブログで書いてます。今回もそんな感じで好き勝手に綴りたいと思います。最近また配信やってるんですけどそこでは到底言えないような本質的なものが言えるのがこの場なので、あまり面白い内容ではないかもです。

 

やはり物を作っている時によく見えてくる自身の欠点。それがこのお休み期間で具体的になってきた。その中でも大きく感じたのが楽観性の無さ。これは元より僕は楽観的な人間だったはずなんですよ。幼少期、僕は誰よりもふわふわした子で所謂不思議ちゃんだったらしいです。考え方も非常に楽観的な人間で、損得だの合理性だのが全くない人間だった。ただそれもかなり極めていたのか人の感情も分からなかった。相手を思いやる気持ち、察する力、そんなもの微塵もない人間だったんです。

そこからこのままじゃまずいと本能的に思ったのか、急に悲観性だったり物事を客観的に見る目を養いました。それはそれで中学時代苦労もしました。どんどん自分が冷酷な人間に思えて苦しんだりもしました。その辺から創作を前提に物事をすべて見るようになり、消費者の目線も消えていったような気がします。

今悩んでいるのは全くもって本末転倒なんですが、客観性や合理性を意識するあまり、元より得意だった楽観性や主観性に自信を持てなくなった。ある意味すべて考え込んで理論立たせてやっとそこに意味を見つける癖が馴染んでしまった。これは非常に機械的な思想で、映画や漫画、音楽なんでもいい...そういった創作物でも感動しても脳が勝手にその感動を読み解く。そして言語化する。

これは謂わば言語化に囚われてしまった状態にある。僕は現状どう苦しんでいるかというと、言葉や論拠で考える限り言葉や論理を越えるものを理解できない点にある。

昔から難解な作品が好きだった。「serial experiments lain」やら「エヴァ」やら、やたら難しそうなものばかり食い付いていた。もちろん厨二病的なインテリ系に酔う自分カッコいいみたいなのも当然ありました。でも一番はそれらを理解できていない自分が腹立たしかった。僕が好きになる作品は大抵、理論や論理を越えたものばかりだった。好きなのにその好きを証明できない自分はそういうのを描けないのかもしれない恐怖が大きい。

恥ずかしくて悔しいけど、僕は頭が悪いし感受性も薄い、平凡な人間なんです。

 

頭で解っても本心で解ってないものの例えで分かりやすいものをあげると「自己破壊」。全くもって合理性はないのに、その傾向にある人間にとっては欠かせない一つの行動原理であり、そこにはその本人にしかないアルゴリズムがあるのだろう。これはそういうものがきっとある....という点までしか僕は分からない。まぁ人間誰しも別人だから完全理解など出来るはずもないのだが、僕はそれを完全理論で理解しない限り描くのが怖いのだ。『ファイトクラブ』で内なるテロリズムを学んだつもりでいても、僕本心からその自己破壊や破壊衝動を合理性などないはずのその行為を完全には再現できない。やはりフィクション作品や、そういった作品での模倣だったり参考にしたものを別の手法で再現するほか出来ない。だからリアリティもアドリブ感もそこで落ちてしまう。一度冷静にその行為を行う意義を考えてしまうフェイズを挟んでしまうと勢いは落ちる。ばちばちのセンスも何も掴めないんですよ。

 

これには本当に頭を抱える。着物の柄や服の模様だって、きっと歴史や論理がそこにあって専門家からしたら一瞬でバレるのだろうと思うと筆が止まる。

ここで楽観性があれば、そんな思い込みも吹っ飛ばして内なるもので勝負できたかもしれない。そういった潔さがあればと今ではいつも思う。

これは親切さも邪魔してくる。相手に理解されようと努力する作家は間違ってないと思う。でも親切すぎてもダメなんです。どこか意地悪じゃなきゃ。読者のストレスさえもエンターテイメントに消化できない限りは淡白な揺れ幅などないフラットな作品になってしまう。例えば、読者に難解な内容を提供しようと考える。親切な性格だったらその難解さを噛み砕いて読者に教えるだろう。でもすべて説明しきってしまうとそれはテンポも悪いし何より読者が感じる歩幅がない。ここで読者を完全信頼して好き勝手に意地悪できたらどうだろう。「最高にロックだぜ」なんて構成できたらどうだろうか。不親切でも鮮度と作品の爆発力は大幅に増す気がする。もちろん不親切になりたいわけじゃなく、程よく両方活かせればいいなと思う。

僕は自分で言うのもなんだけど、読者を信頼しきれてないしそもそもチキンだ。ビクビク顔を伺いながら描いてる。それが合理性と結びついてすべてにおいて意味合いとか必然性を考えてしまう。意味のないコマが効果的になるなんて狙って描けないんですね。

今は本当にこの臆病で無駄に親切を振る舞う自分自身が嫌で仕方ないです。自分の絵の、持っている武器の強さを全く理解できていない。もっと胸張って描ければいいのですが....。

 

こんだけネガティブな卑下野郎なので、いつも心の中でどうして自分がこんな立場に立ってていいんだろうとか、すごい人に会った時や恵まれた環境を実感した時に「どうしてこんな平凡な僕が」みたいな感情が常に纏うなか『海獣の子供』を見て「あんたでいいんだよ」という言葉がここ最近ずっと波動のように響いてます。ここ最近ずっと五十嵐大介先生の漫画が非常に居心地がいいのに気づきました。

またロジカルに考えてしまいがちなんですが、いわゆる名作映画だとか、壮絶なルサンチマン、人生で一度は観ておかないといけない作品だとか、そんなもの僕は実は心の本心で共感したことなんてほぼ無いんです。戦争映画だって他人事にしか思えなかった。死の価値観だって平和ボケした僕の世代だったら歴史の一個として淡々としか見れなかった。そこにあった大きな悲しみや事故、それも過去の物として無機物を見るかのような、心の震えはないんです。3.11の時も、結局自分が被害者ではなかったのもあったけど絶望を然程感じれなかった。テレビ画面で信じられないショッキングな中継映像は確かに観た。実際ショックだった。でも、もうその時の感情も自分に中でが過去のものとして消化済みのような感じがしている。あれを経験してしまったが故に歴史に載る大きな出来事などこれくらい不意に訪れて不意に終わる大きな流れの点に過ぎないような、書物で見るほどの大袈裟なものに感じれなくなっていった。(しかもそうにしか思えない自分が冷酷と自己嫌悪をする無限ループ)

頭ではこの映画が当時の人々に衝撃と新たな価値観を与えたことは歴史的な観点から見て理解は出来るんですが、それが結局本心から理解したわけではないから言ってしまえば「事実としては理解できたけど自分的には全く分からない」みたいな状態になっちゃうんですね。

そんな中『海獣の子供』はそれを全部否定してくれた。君は君の世代で君の思うようなままで正解だと背中を押してくれたような優しさを感じたんですよね。五十嵐大介さんの優しさが出てるのかもしれないんですが、戦前と戦後が大きく人の価値観を分けたと思うんですが、そんなのも蹴散らす程の楽観性とさらにそこに妙な説得力があるんですよね。

それはひどくロジカルなんだけれども、思考の域はとうに越えていて、もっと本質的な点を突いている。鋭くて怖い。だけどとてつもなく居心地がいい。そんな風に思った。

僕は今新作を描いているのだけれど、相変わらず楽観性は全然なくてビクビクとちゃんと描いてるんですが、五十嵐大介作品に出会ってからは以前よりかなりダイナミックになれた気がした。それでいい、それが楽しい、たとえ理由がなくても良いものは良い、そんな風に思い込みながら描いてます。

完成するか分からないですが是非皆様が読んでくれる時が来ることを祈ります。

 

悩みを書いてたはずがいつのまにか脱線して五十嵐大介作品に感じたものを熱弁してしまいました。何が言いたかったんだ...。

相変わらず考えたから書くタイプではないので、思いついたものをひたすら書き殴ってる感じになってしまいましたが、沢山悩んでる内の1個「楽観性」。これは今後とも僕の大きな悩みとして立ち塞がることでしょう。頑張っていこうと思います。

 

また悩みを書くことでしょう。読んでていい気持ちになるものではないので、暇な時に軽い感覚でこいつこんなめんどくさいこと考えながら描いてるのかって思ってくれればいいです。

 

また会いましょう。