少年エース11月号

こんにちは。ホタテです。

明日の9/26発売の少年エース11月号に『恋する寄生虫』第12話が掲載されております。

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最終回にどんどん近づいてきました。絵にどんどん気合いが入ってきました....。気がします。

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前回お休みさせて頂いてほんと申し訳ありませんでした。ですが自分の思考の整理的な意味ではとても意味のあるお休みでした。ぼんやりと考えていた今後の自分についておおよそ目処が立った感じがしました。

Twitterをやめて表世界から身を引いて(元々大して知名度はないですが)から1年近く経ちましたが、現状辞めてよかったと思うことの方がやはり多いです。自分の絵を見つめ直すキッカケは勿論ですが、他者との比較をする焦りとかそういったものはどんどん消えていって従来僕自身が不足していた「自分の為に絵を描く」という感覚が掴めてきた気がします。

当然僕の性格から見て100%独り善がりな絵にはどうせならないのは目に見えているのでこのまま勝手に描いて満足、、といった事にはならないと思います。ちゃんとエンタメはエンタメとして意識はします。プロとはそこも重要なのは解っています。

この「独り善がりな絵」については実は結構長年僕を悩ませていたテーマの一つで、僕は言ってしまえば独り善がりな絵っていうものへの憧れが凄まじかったんですね。天才の描く絵、作者本人の世界観のみの絵、一方的な表現だけども勝手に人がなぜか惹かれてしまう絵、そう言ったものはすごく憧れていました。僕自身そういう絵が好きなのもあります。なんだかそういう絵を見ているといつも思うんです、この作者は人生で何を見て、何を吸収してこんなものを描けたのか、などと。もしかしてここの地上の概念ではない...翻っていえば生まれる前の世界のセンスのような、この世にもしかしたら無い“何か”の記憶を生まれからして持っていた人が無意識に描いてるんじゃないのか、なんて思うんですよね。

だから僕から見たそういう絵が描ける天才とかって天使かなんかに思えてくるんですよ。地に足が付いてない....地球上のあらゆる泥(僕は地球上での経験や地に足が付いた経験のことを泥と呼んでます)が全然付着しない人ふわふわした人、そんな風に思うわけです。そんなこの世の概念じゃないけど人類皆生前見ていた“何か”を断片的にでも描ける絵に人々はそりゃあ惹かれるでしょ!ずるい!なぁんて思ってたんですねずっと。僕はそう言った絵は描けない。そういう絵から無意識に影響は受けてましたが、それは僕の内なる0から作ったものでもなんでもないんです。自分が天才でも特別でもなんでもない泥まみれな人間だって気付いた時の悲しさや虚しさは結構物凄いものでして、当時相当落ち込んだですね。(気付くのも相当遅いアホだったんで笑)

でもあるキッカケで気付いたのが、泥まみれの人の絵の温かさなんですね。勿論泥が全くないふわふわした美しい絵も滅茶苦茶素晴らしいですが、やはりどこか冷たい。見てるこちら側には寄り添ってくれないなぁなんて考え始めたんです。そんなこと気付かないくらいこっちが勝手に魅了されるすごい絵なんですよホント。でも見てる側にも手を差し伸べてくれる絵って何だか優しくて、温かいんですよね。そういうのが描けるのって泥まみれな人間なのかなって思いまして。この星のことをよく知っていないと、人類のことをよく知っていないとそんな手を差し伸べる絵なんて描けないのかな、なんて思い始めました。

僕は結論からしてそう言った天使のような絵への憧れはやはり拭いきれない。でも独り善がりなだけで冷たい絵は描きたくない。そんな思考に纏まってきました。もともと母親に褒められたり人に見せて褒められる為に絵を描く程度の普通の子でしたから...。僕一人で絵はなかなか成立しなくて。勿論最初で書いた「自分のために描く」というテーマは相変わらず続けてますがそれでもどこか「隙」を、見てくれる人が介入できるような隙間を描いていきたいなって思います。それが今の僕が目指すエンタメなのかもしれないですね。

まぁここ数年でこれだけ思考論理が変われば、またコロッと変わるかもしれませんがね。僕チョロいんで。

 

長々と書いてしまって申し訳ないです。自分の思考整理のために人と喋るのが大好きなんですが、ブログもなんだかそんなメモ的な感覚になってきました。暇な人だけ読んで下さい。

 

では。

 

ホタテユウキ